堀之内妙法寺

『堀之内のおそっさま』 寄席で落語も楽しめます
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施設名 堀之内妙法寺
所在地 東京都杉並区堀ノ内3-48-8
電話番号 TEL:03-3313-6241
FAX番号 FAX:03-3313-5007
紹介 日蓮宗の寺院。
寛永九年(1635)に創立され、創立当初は真言宗の寺だったが、元禄五年(1692)碑文谷の円融寺のところにあった法華寺が幕府に取り潰された時、日蓮聖人の木像を移して本尊とした。この木像は聖人42歳の時の姿を弟子の日朗が彫ったといわれ、男42歳の厄除けに霊験があると広く信じられていた。参詣者には宗派を問わず〝厄除けの護符〟を渡したので、広く信者が増え、あらゆる厄除けに霊験があると、江戸市民の信仰を集め、落語のネタになるほど有名になり、〝堀之内の御祖師様〟として江戸郊外屈指の名所に数えられ、戦前まで大変に
繁盛した。
寺域は10000坪もあり、天明七年再建の仁王門、祖師堂、本堂、庫裏、書院など多くの建物は江戸時代の面影をそのまま残し、明治11年製で国宝の鉄門、絵馬、古文書、奉納品は当時の繁栄を物語っている。
なお宗派の檀林(大学)として学僧の修業道場になっているので、炊事場に通勤するパートの女性職員以外は女人禁制となっている。

●おそっさま
 日蓮宗では宗祖日蓮を「祖師」として「御祖師様」と呼ぶ。江戸っ子は「おそしさま」といえないので「おそっさま」となる。江戸時代後期、雑司ヶ谷の鬼子母神の人気が衰え、妙法寺参りに人々の関心が移って隆盛した。落語に粗忽者のおそっさま参りを題材にした「堀ノ内」がある。

●仁王門
 初め鐘楼門として建立され、下層両脇間に浄慶等作の増長、広目二天像を安置したが、明治元年千代田区永田町日枝神社の仁王像を移してニ天像と入れ替えた。梵鐘は別棟の鐘楼に吊られている。総欅造りで、上層下層とも桁行3間×梁間2間、腰屋根はなく、上層に回り縁を廻らし、高欄を設けている。建築者は大工棟梁門田与兵衛定元などで、天明五年(1785)釿立、同七年(1787)上棟したと棟札に記載してある。江戸時代日蓮宗の寺院伽藍の規模を示す代表的な遺構。

●天明の水
 祖師堂の東前にある手水舎は、天明二年(1785)第十七世日研上人の時、渇水のために掘った井戸で、妙法寺の水屋といわれる所以があります。この井戸は、天明の当時から未だに涸れることなく清水を湛えている。

●額堂
 仁王門を入ると、左手(境内南東隅)にあるのが「額堂」で、文化11年(1814年)に建立されたと記録が残っています。この種の建物は、他に例が少なく貴重なものである。「額堂」は、いわば巨大絵馬のアートギャラリーで、奉納絵馬には見るべきものが多い。ここはオープンスペースになっているので誰でも気軽に巨大絵馬を鑑賞することができる。

●鉄門
 明治11年鹿鳴館・上野博物館・ニコライ堂などを設計し、日本の近代建築学会の恩師といわれる英国人J・コンドル博士設計による貴重な和洋折衷様式の鉄門。芝赤羽橋の工部省赤羽工作分局で製作され、門柱の漢詩は、名筆家として知られる身延山久遠寺第74世吉川日鑑法主(ほっす)の筆跡で、右には、

   花飛浄界香成雨(花は浄界に飛んで、香りは雨と成る)

 左には、

   金布祇園福有田(金を祇園に布て福は田に有り)

 と書かれている。
 扉上の中心に極彩色の鳳凰を抱く鉄門は、日本寺院の門としては、特殊なもので、文明開化を推進した和洋折衷を強く意識した門といえる。当時としては斬新なデザインでしたので、物珍しさに見物に訪れる人も多かったようだとか。国指定の重要文化財。

●鐘楼
 祖師堂の西前にある。梵鐘には「鐘の音は妙法の声、鐘を打てば仏と一つになる」という意味の文字が刻印されています。享保十年(1725)第10世日弘上人の代に鋳造されたとされている。恒例の大晦日から元旦にかけての除夜の鐘は、この妙法の鐘が界隈に鳴り響く。またお正月の三ヶ日の初詣の際には、福を招く打出の小槌で鐘を打つことができる。

●祖師堂
 仁王門を潜ると、目の前に見える妙法寺で最も大きな堂宇だ。正面の御簾の奥に「祖師御尊像」つまり「やくよけ祖師像」が奉安されている。この祖師像は「おそっさま」と呼ばれ開帳した者は、そのご尊顔を拝することが出来ます。やくよけ・家内安全・病気平癒のご祈願は、この祖師堂で受けることができる。棟札によれば寛政十三年(1801)再建の斧始め、文化八年(1811)上棟している。 構造形式は、桁行5間×梁間7間の唐破風附き(背面は千鳥破風)入母屋造り、明治になっ
て屋根瓦を銅瓦に葺き替えた。またこれ以前にも、明和六年(1769)に焼失し、同九年(1772)再建上棟したことが知られてる。その棟札には上総、安房の大工が多く名を連ねているのは、安房は日蓮聖人の出身地だからだろう。さて日蓮宗が種々と政治的で、いつの時代にも騒ぎの渦中に陥るのは、日蓮だけが日本人で、最澄や空海が、日本人ということにはなっているが、正体は中国人だ
からではないか? と寺では疑ってるが、疑うまでもなく、最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)は
中国人だ。ただ日本人としたほうが布教しやすかっただけのことだ。
 堂内は、天井や壁が金箔で覆われており、迦陵頻伽(かりょうびんが仏教で極楽または雪山にいるという想像上の鳥)の彫物があり、まさに絢爛豪華なたたずまいをみせている。また仏の住む珠弥山の中腹にある東西南北の門を守護する四天王である廣目天(西方を守護し、災難から守る神)・増長天(南方を守護し、病を治す神)の像が堂内奥に奉安され、妙法寺を守護している。昭和35年東京都指定有形文化財となる。

●本堂(三軌堂)
 祖師堂の北東奥にある。「三軌堂」とも称され、主に檀家の方々の法要行事等が営まれるところだ。
「三軌」とは、如来の衣・座・室を表し、法華経を信じ説く人の三つの心構えを表している。正面に奉安されている「おそっさま」は、昔、出開帳といって多くの人々がお参りできるように他所に持ち出された祖師像。左側に奉安されている立像は「旭ヶ森のおそっさま」で、清澄の旭ヶ森で朝日に向かい御題目を唱えた姿を現している。
文政五年(1819)に建立された本堂は、絢爛さが目を引く祖師堂と対照的に、落ち着いたたたずまいを見せていまる。

●織部燈籠
 大玄関から御成の間への廊下右手の中庭に石造りの燈籠がある。織部燈籠は、桃山時代の茶人古田織部が好んだ形式の燈籠で、竿の上部が丸く左右に張り出した形をしている。「織部燈籠」は、竿の中下部に人物像を浮彫にするものが多く、キリシタン禁制以後は隠れ切支丹の信仰を守ることになったのだが、この燈籠にはその特徴がみられない。この燈籠の元と所在地。移された経緯については詳かでない。

●有吉佐和子の碑
 『複合汚染』『恍惚の人』などのベストセラーで知られる作家。
 彼女は妙法寺のすぐ近くに住んでいて、境内を通って帰宅されることも多かったということだ。当人はキリスト教の信者だったが、妙法寺をこよなく愛していたこともあり、周囲の方の勧めで建てられた。

●日朝堂
 本堂の左奥に建つ「日朝堂」は、文政十一年(1828)第20世日憲上人の代に創立され、身延山11世行学院日朝上人の尊像が奉安されている。室町時代に多くの学業を成し遂げた日朝上人は、眼病を患うほど勉学に精進された。回復後自身と同じように眼病を患った人々を救いたいと大願をたてたところから、「学問と眼病の守護」としても崇められるようになった。稀世の学匠として高名であったことから、学業増進・受験合格等、勉学の願いが叶えられることで有名になった。受験シーズンになると多くの人々が訪れている。また絵馬の奉納による祈願も盛んに行われ、合格した人からの報告や歓びの声も寄せられているようだ。

●二十三夜堂
 二十三夜を祀っている堂宇だ。二十三日の夜、月待をすれば願い事が叶うとされる「二十三夜信仰」は、妙法寺では第18世日観上人の頃から始まり、毎月23日には縁日も並び賑わいをみせている。
毎月23日には「二十三夜堂」も開かれ、財運・縁結びを願う人々が祈願に訪れている。白蛇が石になったとされる「なで石」に触れるとご利益があるとして評判となっている。手で撫でるだけでなく、財布で石を擦るという人もいて、参詣者の人気を集めている。また堂前には、参詣し人々の願い等を書き留めるノートが置かれており、願いが成就した人の嬉しい報告も載っている。

●浄行堂
 二十三夜堂の東側にある。浄行菩薩の身体を清水で洗い、祈願することによって病気治癒・家内繁栄の御利益があるとされている。また自分の体の悪いところと同じところをタワシでこすり、良くなるとされている。浄行の尊像は、古い石像だが、その身体は独特の光沢を宿している。堂の脇には、祈願成就を願う信者の方々により奉納されたは千羽鶴がかけられている。

●子育観音
 武蔵野の面影を残す妙法寺の境内に観音像は立っている。観音は観世音菩薩といい、世の人の苦しみを聞き届け、災厄から救う。その清らかで慈しみ深い眼差しは、どんな悩みも溶かす。

●大玄関
 妙法寺で行われる特別行事のときに使う玄関。格の高い住職しか入れない玄関とされている。ここは本堂の玄関口でもある。一段と静寂が保たれた内奥に位置して、格調高い門構えとなっている。

●御成の間
 妙法寺書院 寺所蔵の『当山祖師堂普請之事荒増扣』に「文化十一年(1814)五月五日御成御殿普請願出成就也」と見え、寺ではこの書院を「御成の間」と称している。 なお「御成御膳所」とも呼ばれ、一橋家、田安家などの御膳所になったという記録もある。構造は上段8畳で四周に入側(畳廊下)30畳があり、三方に縁(板廊下)を廻らし、西北部は畳5畳で大書院に、東北部は板間で奥の間に接続する、桁行柱芯々9m、梁間芯々7m7cm。作者は詳らかではないが、江戸後期の建築であり、上段の周囲に入側を廻らした形式のものは他に類がないそうだ。歴代の徳川将軍が野遊の折り使われた部屋で、天井・床の間・腰障子には、狩野幽玄常信の筆による画が描かれている。将軍が使ったお手洗、将軍が座る一段高い座敷など、当時ありのままが窺える所が興味をひく。昭和40年東京都指定有形文化財となっている。

●書院庭園
 御成の間と、諸大名の使者が来寺の際、応接間として使った座敷「使者の間」との間には書院があり、ここから手入れの行き届いた庭園がよく見える。

●ハナショウブとアジサイ
 境内は非常に広大で周囲は大樹が鬱蒼と茂り、いかにも古寺らしい雰囲気に包まれてる。裏門を出ると墓地があり、広々とした花畑となっていてアジサイとハナショウブが何千株も植えられ、見事な花景色を展開している。見応えある花は6月半ばから月末にかけて開花、その一角には藤棚もあって4月末芳香を漂わ花房が垂れ下がる。境内には他にウメ、ソメイヨシノ、シダレザクラ、サトザクラ、カリンなどもあって、春から初夏にかけて見応えがある。

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