【シオミ】汐見小学校

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千駄木2丁目19番にある区立校。第一次世界大戦の頃の好景気に伴い、駒込・千駄木・動坂・根津一帯も発展し、就学児童も増大した。そのため既設校だけでは収容が困難となり、二部授業や仮教室での授業が続いていた。そこで本郷区議会は世論を察し、大正11年学校増設の賛同を得て、建設計画・校地買収計画など着々と進捗していたが、同12年関東大震災に遭い、自然中断となった。しかし震災後一層児童が増加し、復興の気運も熟し、同14年校地買収予算が議決され、東京府から認可を得た。同15年に起工して翌昭和2年に竣工。コの字型鉄筋コンクリート造り4階建て講堂付き、スチーム暖房の校舎は、当時としては東京でも屈指の最新式校舎で、他県からの見学も多かった。4月1日「東京市汐見尋常高等小学校」として開校。学区は、駒込千駄木町・駒込坂下町・駒込林町の一部で、千駄木・根津・駒本3小学校の一部の児童が入学、尋常科1224名、高等科116名でスタートした。校名は、森鴎外の観潮楼がそうであるように、高台から東京湾が望めたので「汐見」を冠することとなった。開校式は国家的記念日がよかろうと日本海海戦の戦勝を記念して祝日となった海軍記念日の5月27日とし、数校の児童が集まったため、式の練習も大変で、現在でいう生活指導が細かい点にまで亘って行われた。当日の服装は児童は勿論職員にまで示された。
 昭和7年1月13日校歌は、職員原謙水の作詞、近森一重の作曲で制定された。歌詞は開校の時、講堂に「海の彼方に旭日昇る」「日進日新」、職員室に「質実剛健」の額が掲げられており、それを教訓として児童の理想と意気が大洋の荒波に棹差して目的の彼岸に猛進する、その意気を謳ったものだ。

  1.見渡す海路(うみじ)果もなく
    天津日影の差し昇る
    行く手を目指す舵の音は
    汐見の庭に溢れたり
  2.暇行く駒の足速く
    文化は日々に新たなり
    謂うこと勿れ明日ありと
    努めよ今日を諸共に
  3.栄ゆる町の学び舎に
    尊き御国の民として
    心も身をも健やかに
    励みて汐見の名を上げん

 同9年高等科を廃し、「東京市汐見尋常小学校」と改称。校旗制定。同14年再び高等科を併置。同16年国民学校令により「東京府東京市汐見国民学校」と改称。当時大日本青少年団の結成が義務付けられており、汐見でも「汐見少年団」が組織され、隊列を組み、行進・敬礼・集団登下校の訓練が連日行われた。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都汐見国民学校」と改称。戦争が激しくなるにつれ、授業は中断されがちで、同19年401名の高学年児童が栃木県塩原に集団疎開した。同20年3月空爆により、校庭に大型爆弾が投下され炸裂、直撃弾でなかったものの爆風による窓ガラスの破損など被害は大きかった。5月校舎は海軍東京地方施設本部となる。敗戦後、集団疎開をしていた児童も帰校し、11月21日尋常科14学級、高等科3学級で再スタートした。同21年柏学園開園。同22年学制改革で高等科は新制中学校になることになり廃止。「東京都文京区立汐見小学校」と改称。そのころ3階に本郷女子商業(同21~25年)、2階に区立八中(同22~26年)、1階と2階に汐見小学校と3校が同居した。同23年父兄会をPTAに改める。同27年創立25周年記念式典。同32年創立30周年記念式典。同33年台風22号の水害で学区が浸水し、住民が講堂に避難。同42年創立40周年記念式典。同プール改修完了。同44年全校遠足。同46年校内放送施設全面新調。同51年6年生の八ヶ岳教室開始。同52年創立50周年記念式典。同56年6600ボルト変電所設置。同59~62年校舎全面建て替え。3月新校舎落成。6月屋上プール完成。創立60周年記念式典。同63年校庭壁面に「滝」ができる。
 平成元年観察園完成。同9年常設の校歴室完成。創立70周年記念式典。同14年創立75周年記念の集会。同19年創立80周年。

 

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