【セイジョウ】成城の由来 1丁目~9丁目

 中学校名による。成城とは「詩経」の「大雅」の中にある「哲夫成城」(哲夫城を成す)から採った。哲夫とは哲人・哲士とも言われ「道理をわきまえ見識の優れた人」のこと。「哲夫は城(くに)を形作るものである」という言葉から学園の名前が生まれた。ちなみに祖師谷にある学生寮に「哲士寮」と命名している。さて大正13年牛込から小田急との約束で成城第二中学校が移転してきて発足し、「成城玉川小学校」を併設、幼稚園を創設した。中学生徒は京王電鉄の烏山駅(昭和4年千歳烏山駅に改称)から1里の道のりを歩いたという。
 昭和2年小田急が開通すると駅名を「成城学園前」とし、駅前2万坪(6万6千坪とも)の土地を学校が購入して、父兄に対して住宅地として販売、学校の建設資金とするとともに武蔵野の面影を残す街づくりに踏み出した。当時の申し合わせにより「生垣は低くし花木を多く植える」ことが固く守られたという。同5年の朝日住宅展示会は当時流行していた「学園町・文化住宅・計画的な町並」というイメージ作りにのっとって喜多見村を割いて、別途「喜多見成城」と命名した。
 日本人はこういったキャッチフレーズに弱い。そんなこんなで、地方出身者の文化人・役人らが殺到、千客万来の大賑わいとなった。今では田園調布3丁目と匹敵する最高級と自認する閑静な住宅地となっている。

 喜多見村。明治22年喜多見村は神奈川県北多摩郡砧村の大字。同26年北多摩郡を東京府に所管替え。昭和5年砧村字喜多見成城。同11年北多摩郡砧町は世田谷区に吸収され字喜多見成城は成城町となった。同46年新住居表示により成城町に祖師谷町・砧町・喜多見町の各一部をあわせた町域を現行の「成城」とした。

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