【ヨヨギ】代々木の由来 1丁目~5丁目

①、駒場野まで続く原野(代々木原)に明治神宮も代々木練兵場(代々木公園)もなかった頃はサイカチの木が多く自生していて、その実は当時の石鹸であり、漢方では利尿・去痰(たん切り)に効く薬となるので、村では代々収穫していた。つまりサイカチは「代々受け継ぐ」だった(東都一覧武蔵考)。

②、明治神宮は元は加藤清正の下屋敷で、同家断絶後は井伊大老家が継ぎ、維新後は皇室御料地となっていたが、大正9年11月1日神宮が造営された。東門のところに一本の樅の巨木があり、代々受け継がれてきた。「代々の樅の木」→「代々の木」→「よよぎ」と転訛して何時しかそれが村名になった(大日本名所図会)。この木は幾代か植え継がれたものらしく、幕末のものは高さ50m、幹周り10mあって馬3頭を繋いでその姿が見えなかったという。写真で見る限りそんな風には見えないが、確かに巨木ではあった。安藤広重が『代々木村の代々木』に描いており、当時は東京タワーのように遠くからも見え、旅路の目印だったとも伝わる。本当かなぁ? 幕末に黒船が来た時、井伊家ではこの木に登ってそれを監視している。明治の中ごろに枯れたとも、戦災で焼け落ちたともいわれ、昭和27年4月3日新しい樅ノ木が植えられ看板を添えてある。どちらの説にしろ代々木は代々木の杜の木だ!

明治天皇御製
うつせみの代々木の里は静かにて都の外(ほか)の心地こそすれ
うつせみの代々木の里のなり所 花の梢も苔むしにけり
照るにつけ曇るにつけておもふかなわか民草の飢えはいかにと


 代々木村。『江戸砂子』によると江戸以前代々木本町の北辺(初台1~2丁目、西原1~3丁目、代々木4~5丁目)は「宇陀野」といい、渋谷川の支流宇田川は宇陀野を流れ出た川の意であるという。また「武蔵野」は宇陀野と武蔵府中の間のことだそうだ。村としての起立は江戸時代初期のようで、それ以前には宇陀村も代々木村も見られない。村名はともかく、古代遺跡が八幡神社にあることからして集落があり人々の生業(なりわい)があったことは疑う余地はない。宇田川流域(代々木本町から富ヶ谷の低地)が、古代においては江戸湾の深い入江で、江戸末期まで深町一円(代々木深町交差点からNHKの西側低地)は巨大な池沼だったことが判っており、明治初期に泥中から古い巨船が発掘されたという記録からして、他地域との交易もあったと考えられる。かつて河骨川が表水だったころ、5丁目66番の北側に汐返橋(しおげばし=昭和25年に新潮橋に改称)が架かっていた。その辺りが汐返戸(しおげど)という小名だったからだ。満潮時にこの辺りまで進退現象が見られた名残ではある。かくて代々木本町の一帯は自然環境に恵まれ、きわめて開発されたところだったようだ。太田道灌が初台(八幡神社の山)に出城もしくは烽火台を置いたというのは首肯できる。八幡下の切り通しは青山と結ぶ幹線道路だった。原宿駅の南に三つ橋が架かっている一番南に細い橋が架かっていることを不思議に思わないか? これが古道の跡だ。鉄道の敷設で切り通したため、橋が架けられた。この道が練兵場を横切って代々木八幡に通じていた。アメ公が横領してワシントンハイツを建てると道は封鎖されっちまったい。
 江戸時代の代々木村は、現在の代々木本町を中心として西原・上原の範囲だったようで、代々木山谷、代々木新町、代々木外輪町(明治神宮)の一円は千駄ヶ谷の範疇だったとか。
 もっとも甲州街道(四谷~調布滝坂)は、まさかの時の退却路として家康が拵えたもので、それまでは代々木村の大半は森林や原野で、どれほども使い道の無い地域だったろうから、村域としてはどうでもよかったのだろう。村としての範囲が確定するのは明治6年からの地租改正、同11年の「郡区町村編成法」以後のことだ。
 明治22年「市制町村制」により幡ヶ谷村と合併して代々幡村大字代々木、大正4年代々幡町大字代々木、昭和7年渋谷区に属して、かつての代々木村の村域は、代々木本町・代々木新町・代々木西原町・代々木山谷町・代々木大山町・代々木上原町・代々木深町・代々木富ヶ谷町・代々木初台町・代々木外輪町(そとわまち)となった。同34年代々木山谷町に千駄ヶ谷4~5丁目・代々木新町・代々木初台町・代々木本町・代々木富ヶ谷町・代々木深町の各一部をあわせた町域を代々木1~3丁目、同36年同4~5丁目とし、同44年代々木1~4丁目の全部に、代々木5丁目・千駄ヶ谷4~5丁目・代々木山谷町・代々木深町・初台1丁目の各一部をあわせた町域を現行の「代々木」とした。

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