渋谷区の変遷と由来等

渋谷区の変遷
 現在の渋谷区の区域に入る江戸時代の町村は、慶応四年(1868)松村武蔵知県事に所属したのち、明治2年2月9日下渋谷村・中渋谷村・原宿村・下豊沢村・千駄ヶ谷村・宮益町は東京府に、上渋谷村・代々木村・幡ヶ谷村・穏田村・上豊沢村・中豊沢村は品川県に振り分けられた。同3年1月25日渋谷広尾町は渋谷上広尾町・渋谷広尾町・渋谷下広尾町に分離、同4年11月5日品川県が廃され、上渋谷村・中渋谷村・下渋谷村・幡ヶ谷村・代々木村・穏田村・千駄ヶ谷村・原宿村・上豊沢村・中豊沢村・下豊沢村・渋谷上広尾町・渋谷広尾町(一部)、渋谷下広尾町・渋谷神原町(このとき自立)・青山北町7丁目・青山南町7丁目・渋谷宮益町は東京府豊島郡に編入。同7年2月18日中渋谷村に中豊沢村をあわせて中渋谷村とする。3月8日大区小区制により自治権を奪われ第七大区・第八大区に編入されたのをきっかけとして、内務卿大久保利通の専制強圧政治に反発する声が全国民の中に沸沸として湧きあがり自由民権運動に発展した。大久保は独裁の鬼となり弾圧を強化したが、同11年5月14日仮皇居に通勤の途次清水谷の沢道で天誅を受けて権力の座から引き摺り下ろされてしまった。慌てた新政府は大いにうろたえると大区小区制を直ちに廃し、二ヶ月後の7月22日「郡区町村編制令」を施行して自治権を少し回復し、南豊島郡・麻布区・赤坂区・四谷区に分散した。同12年4月22日新しい千駄ヶ谷村・上渋谷村・下渋谷村が成立。同22年「市制町村制」により各町村を統合して渋谷村・千駄ヶ谷村・代々幡村となり旧町村は大字となる。同29年4月1日南豊島郡と東多摩郡が合併して豊多摩郡。同40年4月1日千駄ヶ谷村が、同42年1月1日渋谷村が、大正4年11年10日代々幡村がそれぞれ町制移行。昭和3年1月1日渋谷町は町名改正を実施、11大字を66町に編成。同7年東京市の20区増設により渋谷町・千駄ヶ谷町・代々幡町が合併して1区となり、渋谷町の発展が著しく他を一歩リードしていたので区名にスライドして東京市渋谷区が誕生した。
 しかし地名としての渋谷は消滅した。代々幡町は16町、千駄ヶ谷町は12町に編成され、区の町数は全部で94町だった。同37年5月10日「住居表示に関する法律」による町名改正・街区番号を整理して平成16年現在の町名は32、区役所は神南にある。
 姉妹都市は「パリ市第6区
」。図書館は6館、地名に関する資料は極めて乏しく、熱誠は感じられない。
 文化施設はこどもの城・青山劇場・代々木競技場・オリンピック記念青少年総合センター・区立松濤美術館・国立能楽堂・たばこと塩の博物館・ブラザエクウス渋谷・エネルギー館・古賀政男音楽博物館・パルコミュージアム・ラフォーレミュージアム原宿・刀剣博物館・Bunkaмuraザ・ミュージアム・戸栗美術館・スパイラルガーデン・ワタリウム美術館・恵比寿麦酒記念館・ギャラリーTОM・めがねの博物館・文化学園服飾博物館・玉の美術館・日本万華鏡博物館・太田記念美術館・白根記念郷土文化館・明治神宮・代々木公園・NHK放送センター・NHKホール・恵比寿ガーデンパレス・むらからまちから館など。

渋谷区の由来
①、むかし区内部まで海が入り込んでいた頃「藻塩焼く里」が「塩谷の里」に変わり、「しほや」→「しぼや」」と訛って「しぶや」となった(新編武蔵風土記)。
②、谷盛庄といっていた当時、領主河崎五郎重家が京都守護の任に就いていた時に盗賊渋谷権介盛国を搦め捕る手柄を立て、その功により土佐守に任ぜられ渋谷の姓を賜り、帰国後領地名も渋谷村に改めた。
③、治承年間(1177~1180)に相模国高座郡渋谷庄の庄司平重国の所領だったことがあり、一族の者が移住して命名した。との3説がある。
①説はともかく②、③説はコジツケか、そうあれかしと願う寝物語(創作)だろう。「渋」には「滞る、行き悩む」という字義がある。だから渋谷は「行き詰った谷」ということでもあり、地形的には入江の奥谷をいう。四谷の一谷をなし渋谷川(古川)となって江戸湾に注ぐ川の上流部(新宿御園の東側)は、かつては深山幽谷で渋谷そのものだった。渋谷村は「渋谷川に沿う村」として命名されたもので、渋谷と呼ばれた谷間は新宿御園東の渓谷を呼んだものと考える。意味は「行き止った谷」の意。谷の上は大木戸で尾根向こうもまた深谷を形成している。つまり新宿通りは半蔵門まで尾根なのさ。さらに代官町→北の丸→田安門、ここから下って浅草橋のコースが、古街道だったのだ。だから東西の交通を制約するところは大木戸のところしかなく、守るに易い要害の地だ。往古「霞の関」と呼ばれた関所があったというのも首肯できるだろ? どうあれ渋谷は渋谷川のどこかだ。新宿御苑東の渋谷川源流部か、渋谷駅辺りの渓谷か? 渋谷川の谷頭(水源)は、他に千駄ヶ谷、明治神宮の北池と南池の三つがあり、河骨川(こうほねがわ)・初台川・西原川・富ヶ谷・宇田川・鶯谷・いもり川・笄川(こうがいがわ)、その他三田用水からの4本の分水路も渋谷川水系だ。とにかく渋谷区は起伏に富んでいて谷沢と山坂が多いんだ。自転車で走ってみて下さい、疲れますよ。また丹羽基二は『地名と語源の謎』で、渋を鉄渋(かなしぶ)と捉えて金糞(水糞)の出る谷と説く。金糞とは水面に浮く鉄分で水が赤茶けて見える、あれです。
 青山田圃が水錆田(みさびだ)だったことは知られたことだから、この説もなくはない。板橋区に金井窪がある。アイヌ語では「シンプイ・ヤ」というと「泉のある岸(陸地)」だ。
 新宿御苑の日本庭園の池の連なりは「千駄ヶ谷」を池水に改めたもので、昔は谷水が流れており、玉川上水が出来てからは余水を落として「除水堀」と呼ばれ、内藤田圃を潤して渋谷川の源流の一つだった。新宿御苑東の渋谷川(現在も残っている)は、千駄ヶ谷渓谷の支谷の一つで往時は人を寄せ付けない深谷だった。だから守るに易い場所として霞の関や大木戸が置かれた訳だが、渋谷駅のある、いわゆる「渋谷」とは全く無縁のところにある。では渋谷駅の辺りをなぜ渋谷というかというと、中世この辺りは渋谷郷といったので、江戸時代の初期に渋谷村を称えたからだ。寛文の頃上・中・下の渋谷村に分かれ、上・中渋谷村の中心は富士見坂の宮益町で、下渋谷村は目黒道(駒沢通り)に開けた渋谷広尾町(恵比寿駅前から明治通り)だった。宮益町の大山道(玉川通り)を通して、渋谷駅前に架かる橋は「宮益橋」だが、渋谷広尾町に架かるのが「渋谷橋」で、明治末期まで渋谷地区の中心は渋谷広尾町にあった。それで最初の渋谷駅は恵比寿寄りに造られたって訳です。

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