【イチガヤカガチョウ】市谷加賀町の由来 1丁目~2丁目

 加賀屋敷跡は加賀原とも屋敷とも呼ばれ、幕初加賀百万石金沢藩主前田光高夫人(水戸光圀の兄頼房の娘で清泰院と号し明暦二年(1656)に30歳で逝去)の屋敷があったことによる。
加賀屋敷跡は1丁目で、牛込三中・NTT市谷住宅・僅かの個人住宅地・大日本印刷市谷工場となっている。

 市谷村。明治5年俗称「加賀屋敷跡」と呼ばれた武家地を市谷加賀町1丁目、土取場町と加賀屋敷跡西側の武家地・乗込馬場をあわせて市谷加賀町2丁目を起立した。
昭和59年新住居表示により市谷加賀町1丁目に市谷加賀町2丁目・市谷本村町のごく一部をあわせて現行の「1丁目」とし、市谷加賀町2丁目の大部分に市谷柳町・市谷薬王寺町のごく一部をあわせて現行の「2丁目」とした。

このページのTOPへ