新宿区の変遷と由来等

新宿区の変遷
 現在の新宿区の区域に入る江戸時代の町村は、慶応四年(1868)五月十二日江戸府に属したものと、同年六月二十九日松村武蔵知県事に属したものがある。但し江戸府も武蔵県も有名無実の役所で、実際は依然旧幕府各奉行所が業務を担っていた。同年七月十七日江戸府を東京府と改称し、市政裁判所(旧町奉行所)の業務を引き継いだ。
 同年9月8日明治改元。
 同2年2月9日武蔵知県事が廃され品川県設置。同4年11月5日その品川県を廃して東京府に編入。同7年大区小区制により144町21ヶ村が第三・第四・第八大区に分配され自治権を剥奪された。この大久保利通による専制強圧政治に国民は猛反発、不平武士の義挙・自由民権運動に発展した。これに対して大久保は、さらなる弾圧と暗殺で応じ、その最たるものが西南戦争だった。盟友西郷隆盛を屠ってまで権力の座にしがみついたことに国民の怒りは頂点に達し、ついに同11年5月14日大久保は、仮皇居(現迎賓館)に向かう途中の清水谷の沢道で天誅を受け、正義の刃の下に斃され黄泉の国へと送られた。親玉の首を取られた新政府の官僚たちは、驚愕の内に周章狼狽、2ヶ月後の7月22日大慌てに大区小区制を引っ込めて「郡区町村編成法」を施行し旧に復した。府内(江戸)は15区に分けられ、後に新宿区となる区域は、四谷区(41町)・牛込区(79町)と、南豊島郡内の10町15ヶ村となった。
 同12年4月12日四谷区に所属した千駄ヶ谷西信濃町・千駄ヶ谷甲賀町・千駄ヶ谷大番町・千駄ヶ谷1~3丁目・千駄ヶ谷仲町1~2丁目・千駄ヶ谷村が合併して新しい「千駄ヶ谷村」を起立(のち渋谷区を構成)。
 同22年5月1日「市制町村制」により15区を東京市とし、千駄ヶ谷村のうち西信濃町・甲賀町・大番町・霞ヶ丘を四谷区に戻入、牛込早稲田村を牛込区に編入。下落合村の一部を北豊島郡東長崎村に移譲。南豊島郡下の町村は再編統合し内藤新宿町・淀橋町・大久保村・戸塚村に集約。同24年3月18日には内藤新宿町の大字内藤新宿1丁目と大字内藤新宿北町の各一部が四谷区に編入され、葛ヶ谷村が落合村に吸収され新しく落合村が成立した。
 同29年4月1日南豊島郡と東多摩郡は合併して豊多摩郡となり、同44年5月1日「市制町村制改正」により四谷・牛込・市谷・大久保・鮫ヶ橋を冠称する町々はその冠称を外した。
 それから20年後の大正元年12月1日に大久保村が、同3年1月1日戸塚村が、それぞれ町制に移行。同9年内藤新宿町は全域四谷区に編入された。同13年2月1日には落合村も町制を敷いたため、当区においては村制の地区はなくなった。
 昭和7年10月1日周辺5郡を東京市に併合して20区を増設することになり、豊多摩郡下の大久保・戸塚・淀橋の三町が合併して1区を成立することになった。しかし中野区に組み込まれる予定だった落合町が、それを嫌い駆け込み合併を懇願したので4町で淀橋区(36町)を発足させた。当区は牛込・淀橋・四谷の3区となった。

●東京都
 同18年7月1日東京市の強大化に恐れをなした内務官僚が「府県制」を改正して新たに「都制」を定め、東京府と東京市を廃して「東京都」を誕生させ内務省による直轄管理を目論んだ。
 結果牛込区・四谷区・淀橋区は行政区となった。しかし軍部がアメリカに挑戦して叩きのめされ、同20年8月15日敗北を認めると、日本国はアメリカの植民地・属国とされてしまい、それがため、アメリカ式の安っぽい民主主義を強制されることとなった。
 同21年9月27日民主化を急ぐアメリカは「都制・府県制・市制・町村制」を改正、同22年5月3日任命制だった地方自治体の首長を公選制に改めると、専制権を奪われる内務官僚は猛反発、負け犬であることも忘れてアメリカに抵抗に及んだ。しかし情けないことにアメリカ人如きに人倫を諄々と説かれ、「恣意のままにする独裁や、国民の血と汗の結晶である税金を私物化する私利私欲が、人の非であること」を悟らされ、理解したかしないかは別として涙を流して引き下がった。己の傲慢が削除されたことが悔しかったのかも。
 これより先3月15日戦禍からの復興のため都心区が再編統合されることになり、牛込・四谷・淀橋の3区は合併し「新宿区」の誕生となり、区長は任命制の東京都長官が任命、新宿区役所は、箪笥町の旧牛込区役所(牛込箪笥町区民センター)に置かれた。

区名決定の経緯
 新宿とは、もともとは南豊島郡内藤新宿町のこと。大正9年東京市四谷区に合併編入された際に新宿1~3丁目(現在の新宿1~3丁目全体の区画とほぼ同じ)となり、新宿駅の発展とともに世界有数の繁華街・商業地区へと変貌を遂げた。その名の由来は、元禄十年(1698)に甲州街道の新たな宿場町として、信州高遠藩内藤若狭守の下屋敷の一部に「内藤新宿(四谷内藤新宿とも)」が開かれたことによる。四谷・牛込・淀橋3区が合併する際、
 ①.「内藤新宿」は古い文献にも出てくるため歴史を感じさせる。
 ②.新宿御苑(四谷区)や新宿駅(淀橋区)などの言葉が全国的に有名で。
 ③.区内のほかの地名より「普遍的。
 との理由で新区名に採用された。
 しかしこの新区名決定は困難を極めた。そもそもこの合併自体が区側の発議によるものではなかったため反対の声が根強く、淀橋区は中野区や渋谷区と、牛込区・四谷区は小石川区や麹町区との合併を模索する動きさえあった。これらの声に最大限配慮し対等な合併であることを強調するため、それぞれの区名を新区名に採用しないことが合併の条件として付け加えられた。この結果『四谷怪談』など四谷という地名は比較的知名度があるとして、当初は「四谷区」が新区名に採用される見込みだったが、これにより不採用となった。歴史的経緯が全く異なる地区同士の合併であったため、地域の総称やシンボルというものが存在せず、また3区の合併であるため大田区のような合成区名にすることも難しかった。この時期に合併して誕生した区は、港区以外はどこも2区合併。また港区の場合、前身の3区は総て東京府発足当初から区部だったのに対し、新宿区の場合は四谷区や牛込区といった区部と内藤新宿町や淀橋区といった元郡部に跨っているため事情を複雑にしていた。最終的に新区名は新宿区とすることが決まったが、牛込区はこの名前に難色を示した。新宿御苑も新宿駅周辺も牛込区には何ら関係がなく、新宿という「郊外の地区の名前」では牛込地区を連想することができなくなるとの理由からだ。事実牛込という地名は埋没してしまった。
 新宿区発足時には他にも新しく9区名が東京都内に誕生したが、区内の1地区の名称を新区名に採用したのは新宿区だけだった。多くはシンボルなどに基づく瑞祥区名を採用している。これがのちに、牛込地区を中心に旧町名を残す運動が盛り上がる要因の一つとなった。
 新区名の候補として、他に、
 戸山区‐戸山は牛込区内の地名。戸山公園がある。地理的に3区のほぼ中央に位置することから候補になった。当時、東京新聞が実施した調査(新区名の人気投票)では得票数一位だった候補名だが、全国的な知名度から新宿区のほうが「普遍的である」と判断され、採用にならなかった。
 武蔵野区‐武蔵野は武蔵野国・武蔵野台地に由来する広域地名。周辺他区の新区名候補でもあったため、選考から外されたものと思われる。
 山手区‐山手は武蔵野台地に由来する広域地名。周辺他区の新区名候補でもあったため、選考から外された。
 早稲田区‐早稲田は牛込区内の地名。牛込は明治期の文学者所縁の地が多く、早稲田もその一つ。有名な早稲田大学があるが、一私学の宣伝にもなりかねなければ、区内には反早大意識もあり、新宿区のほうが「普遍的である」ということで採用にならなかった。
 市谷区‐市谷は牛込区内の地名。JRの駅名にもなっている。この地区の広大な敷地が陸軍士官学校(陸上自衛隊駐屯地・防衛庁本庁舎所在地)となっているため、そのイメージに固定されてしまうと懸念され、選考から外された。
 富士見区‐瑞祥地名。
 花園区‐花園は四谷区内の地名。花園神社や花園小学校などにその名前が残ってる。京都市や東大阪市などに全国的に有名な花園という地名が存在するため選考から外された。
 柏木区‐柏木は淀橋区内の一地域名で、知名度が小さすぎることで不採用。

 などがあがっていた。

 同24年3月15日区歌「大新宿区の歌」制定。作詞・服部嘉香 作曲・平岡均之
  1.空より広き武蔵野の
    国の都の中心に
    大新宿区明るさよ
    道は八方栄えの基(もとい)
    ビジネスセンター集めて此処に
    自治を誇れば空高く
    民主日本の鐘がなる
  2.海より青き武蔵野の
    国の都の中心に
    大新宿区の楽しさよ
    心清かに身も健やかに
    あの町この町笑顔で暮らす
    都自慢の住宅地
    平和日本の風戦(そよ)ぐ

 同25年1月1日区役所を歌舞伎町に移転(1度目の移転)。同40年3月31日角筈3丁目(西新宿2丁目)の淀橋浄水場
の機能が東村山浄水場に完全に移転した。以後跡地は「新宿副都心地区」として整備計画が本格化。同41年11月21日区役所新庁舎(現本庁舎、歌舞伎町一丁目が)完成し旧庁舎から移転、業務を開した(2度目の移転~現在)。同42年3月15日区章を制定。

※区長不在
 
同42年10月6日人気満了により引退した区長の後任には、助役の伊藤俊行が内定しており、都知事の同意も得ていた。ところが伊藤が二重に住民登録をしていることが判明して区議会で問題視されたため、区長就任には至らなかった。その後も新たな候補者の選任が難航し、ほぼ1年間に亘り区長が不在となった。12月17日助役(伊藤俊行)と収入役が任期満了を迎え、区長が不在のために新たな助役・収入役の任命を行うことができず、翌年の山本区長就任まで空席となった。この助役空席期間における区長職務は、総務部長の内田義雄が代理執行した。
 同48年区の花を「ツツジ」に、区の木を「ケヤキ」に制定。
 同50年4月1日小西六商店(コニカ・ミノルタ)新宿工場跡地の「新宿中央公園」の管理が都から区に移管される。同52年区役所分庁舎が歌舞伎町(歌舞伎町1丁目・第一分庁舎)に完成、業務開始。同61年平和都市宣言。
 平成元年9月18日区役所第二分庁舎(歌舞伎町1丁目・現本庁舎から30m北に位置する建物を賃借)完成、業務開始。(既に第一分庁舎の建設計画が決まっていたため、第二分庁舎と名付けられた)これに伴い、分庁舎は改築工事のため閉鎖。
 同3年4月1日西新宿2丁目に東京都庁第一本庁舎・第二本庁舎・都議会議事堂が、旧都庁舎(東京フォーラム)から移転完了、新宿区が新都心として東京都の中心区となる。

 歌舞伎町1丁目の旧分庁舎跡地に区役所第一分庁舎(歌舞伎町1丁目)完成、業務開始。平成6年環境都市宣言。同7年10月財政非常事態を宣言。同9年4月28日区役所四谷庁舎(四谷区民センター内)完成、業務開始。これに伴い、第二分庁舎は廃止。同12年防衛庁庁舎が港区赤坂九丁目の六本木庁舎跡(東京ミッドタウン)から市谷本村町(陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地)に移転完了。同14年10月9日3期11年も区長を務める小野田隆の住民税滞納問題が発覚し任期途中で追放。小野田が追われた後の11月24日、東京都幹部職員の経歴をもつ中山弘子が区長に当選、東京23区初の女性区長となった。同15年4月7日区の未来大使に「鉄腕アトム」を任命。4月25日平成13~14年度の実質単年度収支が黒字となったため財政非常事態宣言を「とりやめ」発表。同16年2月9日新宿5丁目に第二分庁完成、業務開始。これに伴い四谷庁舎(四谷区民センター)は廃止。

新宿区の由来
 内藤新宿。新宿というと誰もが新宿駅周辺を思い浮かべるだろうが、厳密に言うと駅周辺は新宿ではなく「角筈」だ。かつて都電の停留所名も「角筈」だった。甲州街道と成木街道を四谷に付け替えた徳川家康が、千駄ヶ谷にまで及ぶ広大な屋敷地を譜代の内藤修理亮清成に与えたのは街道の監視と警備のためだった。西軍の進攻はこの街道も予想されたからだ。
 慶長の初め内藤屋敷の北面に太宗という僧が庵を結ぶと、その門前でちらほら商売をする者が現れ、小さな無認可(もぐり)の宿場を営んで俗称「内藤宿」と呼ばれていた。そこに目をつけた浅草阿部川町名主の高松喜兵衛と、市左衛門・忠右衛門・嘉吉・五兵衛の五人が、元禄十一年(1698)に「日本橋を出て初駅が高井戸では4里2町(約16km)と間隔が開き過ぎているので、その中間の四谷に宿場を開きたい」と願い出、「5600両を上納する」と約束したので幕府はこれを可し、内藤屋敷の北部を割かせて内藤新宿を開設した。内藤宿としなかったのは〝もぐりの内藤宿〟ではない「新しい宿場」を強調したかったのだろう。喜兵衛は名主を命ぜられ喜六と改名した。しかし風紀が著しく乱れたため(飯盛り女の目に余る客引き)、幕府が激怒し、享保三年(1718)開宿から僅か20年で閉鎖を命じられてしまった。実は四谷大番町に住む内藤一門の若侍大八が、宿場の女の取り合いとかやらで宿場のワル(旅籠屋の用心棒)に袋叩きにされたとかいうトラブルがあり、兄の新五左衛門が武士の恥として大八に腹を切らせ、その首を持って大目付松平図書頭に直談判に及び、知行(領地)を差し出すので宿場を取り潰すよう願い出、内藤本家でも閉鎖を申し立てたという裏事情がある。喜六らは再三再開を願い出たが叶わず、半世紀も経った明和九年(1772)になって漸く再認可となった。これを〝明和の立ち返り〟といい、この年を境に以前を「前新宿」、後を「後新宿」に分ける。
 再開に当たって種々誓約をしているが勿論守らなかったという。
 かくて内藤新宿は日光街道千住宿・中山道板橋宿・東海道品川宿とともに「江戸四宿」と教えられ、品川に次いで2番目の賑わいを見せた。5600両の上納金だが結局納められることはなかったらしい。新宿は宿場(しゅくば)なので「しんしゅく」と読むのが普通で「しんじゅく」と濁る理由は判らない。「ないとうしんしゅく」では言い難くて濁った発音になったのだろう。
 葛飾区では「にいじゅく」、川越市では「あらじゅく」、品川区・大田区では「しんしゅく」という。さて「
内藤新宿は何処か?」というと、内藤新宿町は大木戸(外延西通りの四谷4丁目交差点)から追分(新宿3丁目交差点)までの通り町、現在の新宿通りの両側の町だ。

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