【キョウサイ】京西小学校(大規模改装工事中)

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4丁目3番にある公立校。

用賀4丁目27番にある。明治12年東京府荏原郡公立京西学校設立。校名は伊藤博文の命名だとか。初めは双子道の追分、行善寺道の側にあった。現在石碑が建っている。同13年10月暴風により校舎倒壊。真福寺を仮校舎とする。同19年京西尋常小学校。昭和4年創立50周年。同7年東京市京西尋常小学校。同13年現在地に移転。同15年玉川分教場設置。同16年東京市京西国民学校。同17年玉川分教場を二子玉川国民学校として分校。同19年8月第一次学童集団疎開、新潟県南魚沼郡六日町第一次105名、同20年第二次六日町38名、第三次城内村30名。同21年疎開撤収完了、生徒本校に復帰。同22年世田谷区立京西小学校となって今日に至る。

 校歌「紫におう」 吉川静夫作詞、飯田信夫作曲

  紫におう 雲の上
  富士の高嶺の 雪の色
  輝く望み いだきつつ
  学びの道に いそしまん


校歌は、昭和24年11月30日に制定された。作詞の吉川静夫は昭和17年~19年に同校に在職した。吉川は北海道より上京し用賀に居住、家の窓から、雪を戴く富士山が、秋冬にはいつもくっきりと見え、その印象が、「紫におう雲の上 富士のたかねの雪の色」という詞になったという。また当時の用賀は緑濃く、風も都心とは違って清々しく思われた。校歌2番の「風もさやかに 光あり」は、武蔵野の面影を残す当時の用賀の姿を想起させるに十分だ。
3番の「平和の鐘の あけくれに 進む時代の 歩みあり」は、終戦から間もない昭和24年という激動の時代に「平和の願いを込めて書いた」と吉川は語っている。作曲は、吉川氏と同じ音楽会社に所属した飯田信夫に依頼した。吉川は、それ以後青江美奈「長崎の夜」、森進一の「女のためいき」の作詞でスター作詞家に上り詰め、詩人として大活躍し日本音楽著作家連盟会長も努めた。子どもたちが元気に歌う「京西、京西、わが母校」の繰り返しの部分は、昭和8年以来、いくつもの市歌、校歌の作詞をした吉川の工夫、苦心の存するところだという。
同27年桜町小学校を分校。同29年瀬田小学校分校。同31年用賀分校設置。同33年用賀分校を分離し用賀小学校とする。同54年創立100周年。平成11年創立120年。

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