【ヨツヤダイロク】四谷第六小学校

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大京町30番にある区立校。校地は慶応義塾大学医学部と隣接している。この用地は旧陸軍の管轄にある軍馬補充部本部及び兵器庫敷地(四谷区大番町73番地1号)だった。大正6年陸軍省はこの土地と地続きの西信濃町の輜重兵第一大隊敷地とを払い下げて、2個師団増設の財源に充てたかった。このことを知った慶応義塾大学は、逸早く関係筋との交渉に成功、陸軍省との間に覚書を交わした。これを知った四谷区民は激怒、猛烈な反対運動を展開した。当時四谷区には陸軍省・宮内省の用地が多く、税収入が少ないため、前記陸軍用地の払い下げを受けて、ここに浅草のような繁華街を作り、財政を豊かにしたいという計画で、慶応義塾大学と前後して払い下げの申請をしていたからだ。四谷区は市会議員・国会議員を動員して慶応進出反対総決起大会を開くに至った。その間数度に亘り慶応側と折衝、双方において覚書が交わされた。
 慶応は
   ①.取得した土地の1割を学校用地として坪40円で割譲すること。
   ②.学校建設に際して教育基金に10000円の寄付をすること。
   ③.別に教育基金に対して50000円を寄付すること。

 これはプラスマイナス0で、つまり慶応側は1500坪を無償提供させられた事になる。
 大正15年3月鉄筋コンクリート造り五角形の新校舎落成。全階スチーム暖房。耐震のため柱が多い。各階に三角教室あり。4月「東京府東京市四谷第六尋常高等小学校」として開校。開校と同時に四谷高等小学校が四谷四小から転入してき、四谷実科女学校を併設した。昭和11年四谷実科女学校を花園町36番地(新宿1丁目15番16号)に移転。
同16年勅令第148号国民学校令により「東京府東京市四谷第六国民学校」と改称。12月日米開戦。同18年都制施行により「東京都四谷第六国民学校」と改称。同19年山梨県身延町に学童集団疎開。
 10月疎開解除により学童帰校。空爆で校舎を焼かれた四谷第一・第二国民学校が同居。同22年学制改革により、高等小学校と四谷第六国民学校を廃し、「東京都新宿区立四谷第六小学校」と改称。同25年
校歌制定。

 校歌「緑滴(したた)る」 作詞・関房司  作曲・長谷山峻彦

  1.緑滴る常盤木に
    富士の高嶺の気高さを
    讃えて此処に聳え立つ
    我が学舎よ 第六の
    著(しる)きその名に誇りあり
  2.肩組交わし頬寄せて
    共に励みし学舎を
    勤しみ終えし友人に
    我も続かん 第六の
    高き教えに光あれ
  3.古りたる窓や草木にも
    文化の薫り豊かなり
    仰ぐ平和の青空に
    希望は高し 第六の
    歴史は永く輝やかん
 

 同31年創立30周年記念式典・プール完成。同40年創立40周年記念式典。同50周年記念式典。同55年体育館完成。同60年創立60周年記念式典。同61年校舎全面建替えのため南元町の仮校舎に移転。同62年新校舎が落成して仮校舎から帰校。同7年創立70周年記念式典。同17年創立80周年記念式典。

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